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モンドリアン

 新宿にモンドリアンが来ていたので観に行った(2021年4月25日から臨時休館中)。初期の風景画から水平垂直の線で構成された有名な抽象画まで年代を追って鑑賞することができる。展覧会としては「新造形主義」確立以降のコンポジション作品が少ないので少々物足りないかもしれないと思っていたが、日を変えて数回観るうちに、個人的にいくつか気付くことがあったので少し書き残しておこう。

20世紀初頭の芸術家

 1900年から1940年代までの欧州の芸術家達の作品を観る場合、まず念頭に置いておくべきことは、現代を生きる我々からは想像できないほど彼らは過酷な環境に身を置いていたことだ。疫病・国境の変化・権威の没落・経済の混乱、そして何より人間の生命の価値が著しく低下していた時代である。そんな環境の中モンドリアンは、野蛮な変化に左右されない普遍的な価値の創造を目指したと言えよう。その後、彼の作品は一時期大衆の支持を得た政治から退廃芸術の烙印を押されながらも抽象絵画の嚆矢として今に残る。翻って現代を見渡せば、大規模な戦争によって命を奪われることは少なくなったかもしれない(もちろん今後はどうなるかわからないが)が、そのかわり多くの人の受け取るべき利益が奪われる事態になっていないだろうか。不穏な世の中になりつつある今、過酷な時を生きた芸術家たちから学ぶべきことは多くありそうだ。

「具象画」から「抽象画」へ

H.L.C.ヤッフェ「抽象への意志」(赤根和生 訳)1984年朝日出版社。収録されている「新造形主義に関する対話」はモンドリアンが何を目指していたかを自身が対話形式でわかりやすく解説している。またJ・J・P・アウト、バート・ファン・デル・レックらの論考、巻末には「デ・ステイル」の他のメンバーの経歴が掲載されている。良書。

 展覧会の全体を見渡してまず気がつくのは初期の具象画にはしっかりとした額縁がはめられ、垂直・水平の線が現れる抽象表現に変化した作品には細い角材のような額縁になっていることだ。モンドリアン自身が付けたのか、それとも美術館関係者がそうしたのか不明だが、彼が残した抽象画の中には、画面の側面に意識のあるものがいくつかあるので記憶に留めておこう。

 マルセル・デュシャンもそうだったように、モンドリアンも過去や同時代の美術様式の咀嚼(そしゃく)を行なっている。初期の風景画、新印象派の点描、分析的キュビスムと変化していくなかで、彼のその後の画業の通して見ておくポイントは自然との関わりだろう。自身が表現をするなかで自然を捉えて作品を残していくのか、それとも自然とは別の存在として表現していくのか、そういう問いかけがこの時期の作品、特に画面中央に立っている一本の樹の作品以降から読み取ることができる。自然と対立するのではなく、自然とは別の存在を目指す。その意味でこの一本の樹の構図は以降の彼の画業に影響を与えているが、「新造形主義」を確立後は単純な線・色面に変化していく。モンドリアンといえばあの黒い線に3つの原色で構成されているの画風のイメージが強いが、オランダ時代からアメリカニューヨークに移り住む頃まで通してみると、目まぐるしく画風が変化しているのがわかる。

 展覧会で展示されたモンドリアンの作品約50点の中でとりわけ重要なものは順を追って見た最後の5点(展覧会の作品の通し番号50〜54番)だろう。その中の一点、No.50《格子のコンポジション8-暗色のチェッカー盤コンポジション》に注目して見たい。

《格子のコンポジション8-暗色のチェッカー盤コンポジション》

《〜暗色のチェッカー盤コンポジション》を観た時の私のメモ

 なぜ私がこの作品に注目するのかというと、当初は不連続に並んでいた線や色面の画風から一転して均等に刻まれた格子状に変化しているのだが、この構図はモンドリアンのその後の画業に一貫として反映されており、いわゆる「グリッド」として後の現代美術の芸術家にも多大な影響を与えているからだ。その一見変化のない構図ゆえ「デ・ステイル」を主宰するテオ・ファン・ドゥースブルフからは単調さを指摘されたようだが、この作品に近づいて詳しく見ると、格子の線の上に薄く隣接する色面の色が部分的に塗られていたり、色面自体の大きさを少しずらしたり隣り合わせにしてみたりと、なんとか単調さを克服しようとする試行錯誤を読み取ることができる。当展覧会の図録によればモンドリアンの残された手記から星空から着想されているのではないかと解説されているが、文字通り濃紺の空に煌めく星のイメージを抽象化したと捉えると、いささか誤った解釈になるかもしれない。本作品と対となる明色のチェッカー盤コンポジションの存在と、「自然界の存在物を使用せず創造すること」という彼自身の大命題と矛盾するからだ。ここは星のように不連続に散りばめられた配置を再構築・再構成すると解釈した方がより近いのではなかろうか。暗色のチェッカー盤コンポジションでは、使用されている3種類のそれぞれの色彩はほぼ変化がないのでランダムに配置されたように見えるが、同色彩の4つのモデュールの塊と、左右対称に配置されている色面等のいくつかのパターンを選択すると彼の1910年代前半に見られるコンポジションに出現する、中央に垂直・中央からやや上に配置される水平線の図像の集積が本作品にも感じられる。そのキーとなる図形と色面に対し、偏りのない各モデュールの絶妙な色彩の配置をモンドリアンは行なっている。1920年代以降、モデュールの統合、原色の色彩へと変化していき、均等な格子状は見られなくなるが、見えないグリッドが張り巡らされていると考えて良いだろう。

 この暗色のチェッカー盤コンポジションを詳細に観察するとあることに気づく。この作品には他のコンポジション作品と同様に角材のような細い枠がはめられており、それによって画面が5から7ミリほど突き出しているように見える。正面から右側の側面は絵の具が塗られておらずキャンバス地のままになっているのに対し、左側の側面はしっかりとチェッカーが木枠後方まで塗られている。鑑賞した当初は経年によるキャンバスの縮みによるものなのか、貼り直しによりズレてしまったからかと思ったが、入念に見るとモンドリアンがあえてそのように描いているとしか思えない。これはいったいどういうことなのだろうか。

グリッド

 ここで米国の美術史家・美術批評家であるロザリンド・E・クラウスの論文「Grids」の助けを借りよう。西洋現代美術においてグリッドに準拠した作品を解説する場合、繰り返し引用されることが多い論文なので、読んだことのある方もおられるかもしれない。クラウスによるとグリッド作品の特徴として空間的なものと時間的なものの二つの側面があると言う。空間的な意味では芸術領域の自律性を示しているとされる。幾何学的に平坦化され、自然のに見える状態からはかけ離れたものとなる。もう一つの時間的な次元では、モダニズムの流れとして過去の様式からの離脱を表す。

 西洋絵画はルネサンス以降、透視画法に準拠し空間を表現してきたが、19世紀末から20世紀にかけてその解体を経た後、グリッドの構造が表面化した。それは空間表現でない以上物理的な性質が前面に出てくる。物質的な側面と美的な要素が同じ平面に共存することとなるのだ。それをクラウスは唯物主義(materialism)的だと言う。しかしながらモンドリアンが書き残した新造形主義の論説は絵具や素材よりも表現のあり方、ひいては彼自身、かつ人の人生のあり方とでも言ってよいほどの精神論を語っている。物質と精神。19世紀以降近代化が進む中で宗教による信仰の代わりとして芸術がその受け皿となりつつ、グリッドはその神話的崇高な力によって双方の矛盾を覆い隠し、唯物主義(科学、論理)と思わせると同時に、信仰(幻想、想像)を抑圧されたものとして共存させているのだとクラウスは分析する。そしてかつて科学の反動として生まれた象徴主義画家において描かれる窓の桟(格子の骨組み)にもグリッドを見出す。窓は透明な媒体として外部の世界を光として招き入れると同時に、窓のガラスに反射した自分を写し出し、自己の内部をも映し出す。

  グリッドによって定められた芸術作品は、無限に広がる大きな構造から任意に切り取られた小さな断片として提示されます。そして、グリッドは作品から外に向かって作用し、フレームの向こう側にある世界を認識することを観者に強制します。これが遠心力を利用した解釈です。求心的な読み方は、当然のことながら、美的対象の外側の限界から内部に向かって作用します。グリッドとは、この解釈の仕方に関連して、芸術作品を、世界から周囲の空間、他の物から分離したあらゆるものの描写といえます。それは、世界の境界を作品の内部に取り入れるものであり、フレーム内の空間をそれ自体にマッピングするものです。それは反復の様式であり、その内容は芸術の従来の性質そのものでもあります。
  By virtue of the grid, the given work of art is presented as a mere fragment, a tiny piece arbitrarily cropped from an infinitely larger fabric. Thus the grid operates from the work of art outward, compelling our Acknowledgment of a world beyond the frame. This is the centrifugal reading. The centripetal one works, naturally enough, from the outer limits of the aesthetic object inward. The grid is, in relation to this reading a representation of every thing that separates the work of art from the world, from ambient space and from other objects. The grid is an introjection of the boundaries of the world into the interior of the work; it is a mapping of the space inside the frame onto itself. It is a mode of repetition, the content of which is the conventional nature of art itself.
–“Grids.” October, no.9(Summer 1979) –> The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths P.18-19 by Rosalind E.Krauss 1985 The MIT Press

 外に向かう力と内に入ってくる力。遠心力と求心力 *[1] 。この方法論の格好の題材としてモンドリアンの作品をクラウスは挙げている。特にダイヤモンド型のフレームを持つグリッドの作品はまさに窓を通して風景を見るかのように視界を断片化していると言う。つまり観者にもっと外側の世界があるのではないかと意識させるのだ。それに対しフレームの外側に到達する直前に止まる線がある。外枠の限界の手間で止まった線との隙間をクラウスはカエスーラ(cesura = caesura;[詩や旋律などの]切れ目、句切れ、休止)と表現しているが、このことにより作品に求心性が生まれるのだ。

  遠心性(centrifugal)の議論は、芸術作品が世界と理論的に連続していることを事実として仮定しているため、グリッドを使用するさまざまな方法に対応することができます。この数え切れないほどの連続性を純粋に抽象的に表現するものから、「現実」の側面を秩序立てるプロジェクトまで、多かれ少なかれ抽象的に考えられた実在そのものなのです。
  Because the centrifugal argument posits the theoretical continuity of the work of art with the world, it can support many different ways of using the grid – ranging from purely abstract statements of this countinuity to projects which order aspects of “reality,” that reality itself conceived more or less abstractly.
–“Grids.” October, no.9(Summer 1979) –> The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths P.21 by Rosalind E.Krauss 1985 The MIT Press

 その実践としてアグネス・マーティン(知覚野の探求)やジャスパー・ジョーンズ(人工的な記号の無限の広がり)、ウォーホル(写真自体を完全なものとして「実在」を編成する)等の名を挙げる。そして求心性において以下のように語る。

  そしてもちろん、求心力(centripetal)のある行為では、その逆が当てはまります。完全で内部的に組織化されたものとして作品の表面に集中することで、求心的な実践の分野は、その表面を非物質化するのではなく、それ自体を視覚の対象とする傾向があります。ここでもまた、グリッドの使用があらゆる場面で顕著に現れてしまう、不思議なパラドックスの1つを見つけることができます。フレームを超えた姿勢は、世界とその構造に取り組む際に、その系譜を科学の営みに関連して19世紀まで遡るように思われ、ゆえに、その遺産の実証主義的または唯物論的な意味合いを持っています。一方、「フレーム内」にとどまる佇まいは、芸術作品での純粋に伝統的で自己目的な読み方に関わっており、まさに象徴主義的な起源から発しているように思われます。したがって、私たちが「科学」や「唯物論」に反対するすべての読み方、つまり芸術作品を象徴的、宇宙的、精神的、生命主義的に変化させる読み方を持っているのです。
  And of course, for the centripetal practice, the opposite is true. Concentrating on the surface of the work as something complete and internally organized, the centripetal branch of practice tends not to dematerialize that surface, but to make it itself the object of vision. Here again one finds one of those curious paradoxes by which the use of the grid is marked at every turn. The beyond-the-frame attitude, in addressing the world and its structure, would seem to trace its lineage back to the nineteenth century in relation to the operations of science, and thus to carry the positivist or materialist implications of its heritage.The within-the-frame attitude, on the contrary, involved as it is with the purely conventional and autotelic reading of the work of art, would seem to issue from purely symbolist origins, and thus to carry all those readings which we oppose to “science” or “materialism”– readings which inflect the work as symbolic, cosmological, spiritual, vitalist.
–“Grids.” October, no.9(Summer 1979) –> The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths P.21 by Rosalind E.Krauss 1985 The MIT Press

 しかしまた、このことは真実ではなく、真逆の見方でも解釈することができるとクラウスは語る。フレーム内のグリッドでも物質主義的な性格を持ち、フレーム外側へ向かうグリッドでは表面を脱物質化し、かつ暗示的な動きへと物質を分散させるという。物質的な側面と精神的な側面を矛盾を抱えつつも分裂症のごとく反復させていることは、視点を広くして見渡すと現代に通底している性質かもしれない。この唯物対精神、そして、科学対神話をバランス良く共存させることは必要なことだ *[2] と私は考えているのだが、現代では精神的・神話的なるものが極端に萎縮し、代わりに物質的、あるいは表層的なものが肥大化しているのかもしれない。神話が膨張・暴走した世界はやっかいだが、神話を失った世界も虚しい。少々話が逸れたが、とりあえず《格子のコンポジション8-暗色のチェッカー盤コンポジション》に戻ってみよう。

 右側面の角付近はちょうどグリッドの縦の線が走りしっかりと塗られていない部分が数箇所存在する。これは例えばNo.42《コンポジション 木々 2》に外枠にある画面全体を囲むように引かれた線や、No.43《色面の楕円コンポジション 2》における部分的にぼかすような諧調になっている外周の楕円の線と同様の表現なのだろうか。もう一つの同じ形式の作品である明色のチェッカー盤コンポジションでは画面の際まで到達しないグリッドの線が目立つが、1910年代前半の彼のコンポジション作品に多く見られる画面の周りがおぼろげになる部分と同じ意味を持たせているのか。そして後のNo.51《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》にみられる外周に到達しない線、色面の境界のゆらぎなど、それぞれの抽象表現は異なるものの、一貫した描画形式が存在していることが見て取れる。《暗色のチェッカー〜》に見られるこの僅かながら塗り残しのある右側面は、画面の内側へ力が働く、精神的・想像的・神話的な従来の絵画の側面ということなのだろうか。

 これに対して側面まで絵の具が塗られている左側の部分はどう言うことなのだろうか。よく見るといちばん左のモジュールの列だけ他のものより幅が少し狭い。モンドリアンは右端から均等に16個(一辺が2の4乗、全体で2の8乗個という極めてデジタル的な数値なのも興味深いが)に区分けたときに最後の列だけ少々足りなくなって側面まで描いたのだろうか。意図的にせよ結果的にそうなったにせよ、左側面から作品を眺めた時その物質性が強調され、「もの」としての平面となっている。右側は精神性、左側は物質性。芸術作品として見た場合、画面の両辺が全く質の異なる処理なのは、フレームの際(きわ)に繊細なモンドリアンにしては大味な印象があるが、本作品以降、大胆な黒い線と3原色、周囲の外枠直前で止まる隙間は、旋律の休止というよりも急ブレーキでタイヤが鳴いた後の静けさのような、スリリングな緊張を伴った作品を生み出している。

 一番最後に展示されているNo.54《線と色のコンポジション:III》は1937年の作品だが以前の彼の作品とは全く異なる印象を放っている。太さの異なる黒の線は光沢がありさらに強調したものとなり、全てフレームの際まで到達している。それゆえ外に向かう力が強く、そして側面は白く覆われ、より平面が意識され出展作品の中で最も存在が強い。

 展覧会を通して希望を言えば最晩年のブロードウェイ・ブギウギあたりの作品がもう1点でもあれば、さらに素晴らしいモンドリアン展になったであろうが、無い物ねだりをしても仕方がないであろう。新造形主義確立後のモンドリアンは画面上で絶えず実験を繰り返していたように思える。その結果がそのまま作品として残されたのではなかろうか。《格子のコンポジション8-暗色のチェッカー盤コンポジション》と同じスタイルのものは明色のチェッカーコンポジションと2点のみで、彼としては満足できない結果だったのかもしれない。しかしながらこの作品に残されている実験の痕跡は彼の思考が剥き出しになっているように見えて、そこで得た多くの情報は、長らく「物」「実在」「媒体」「精神性」「写真」「デジタル」に対して延々と思考を巡らせてきた私にとって大きな収穫であった。

グリッドにモダニズムの芯を観る

 上記に挙げたロザリンド・E・クラウスの論文「Grids」だが、40年以上昔に書かれたこの論考はもはや古いと思われるだろうか。論考の中で出てくる、対立する二つの矛盾する概念(科学や論理、精神性や神話など)を同居させて、観者を、さらに制作者本人まで反復させてしまう作品の二重性は現代にもたびたび出現している。例えば、電子的・デジタル的な楽曲に対して非常に人間臭い歌詞や、最新のCGで制作しているのに、科学技術の進歩を批判する映像など、深く考えればある種の矛盾を抱えた表現が、人々の思考の繰り返しを喚起させる。グリッドに関して美術様式の構図としてはことさら新しいものではないが、現代では見えない格子状の概念が我々の生活に張り巡らされ、さらに拡大している。私たち個人の情報はあらゆるサーバーに保存されているが、このデータベースも不可視なグリッドと言えよう。また、視覚的なものに目を向けると、私たちは数百万から数千万単位の常に色彩が変化し自ら発光する小さなセルの集合体と毎日対峙している。それはもはや肉眼ではグリッドとは認識できない。論考の中でクラウスはグリッドに嵌ると変化・発展することを拒み、かつ反復する、それはいささか分裂症的だと述べていた。現代人はグリッドに管理された発光体が表示する図像に対して、怒り、悲しみ、絶望し、欲情し、笑う。彼女に指摘されるまでもなく、なかなかのものである *[3] 。後にクラウスは1981年の論考「アバンギャルドのオリジナリティ」において、グリッドは、「それに魅了された芸術家が自由を感じられる監獄」と表現している。もはや私たちはグリッドからは逃れられない生活を送っているのだ。


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