美術と写真(1)


Neoca 2S + NEOKOR Anastigmat C 1:3.5 F=45mm / KODAK ProImage100

モダニズム

 例年であれば年末年始は実家に帰省するのだが、昨年から始まった疫病はご存知の通りの状況でほとんど自分の部屋にこもって過ごしてしまった。その間、いささか大仰ではあるが人類の進歩や近代化、つまり「モダニズム」について延々と思考を巡らしていた。ワクチンを始めとする先端医療や感染予測などの技術向上・環境整備も望まれ、それは大事なことではあるのだが、その前になによりも、自分自身の「欲」と他人の「欲」にどう向き合うか、いかにコントロールするかという、人間の根本的な問題が横たわっているように見える。その意味でかつての宗教は便利な道具であったが、特に日本では1990年代半ばのオウム事件や宗教の対立に起因するテロ・暴力を目の当たりするようになって以降、どこか胡散臭いものとして見られるようになってしまった。何も敬虔な信者でなくとも、例えば「禅」を基盤にした、あるいは部分的にでも生活に取り入れている方は、コロナ以前とあまり変わらない日常を送っているのではないかと想像してみたりもする。産業革命以降近代の枠組みに沿って歩んできたが、私が生まれた1968年前後を境に、近代以後のあり方を模索しポストモダンという少々消化不良と思われた期間を経て、9.11、リーマンショック、3.11と原発問題、とその時々で制度のあり方が問われてきた。それでもなお疲弊した「近代の枠組み」を維持してきたが、このコロナ渦の状況で、近代の象徴たるイベントを断固として開催するのだと為政者が叫び、多くの人が生活に困る中、株価や唯一性が保証されたネット空間のデータの価値だけが舞い上がっていく様は、その疲弊もいよいよ極まって断末魔の叫びのようにも聞こえる。視線をもっと広く見渡せば、現代では中国が近代を乗り越えようと必死になっているが、どうも他国からの賛同は得られなさそうに見える。一方、一足早く超大国となり乗り越えたかに見えた米国は民主主義の根幹である場所でやらかしている。もしかして私たちは「近代の超克セット」という高額商材を買わされてしまったのではないか。そんなに難しいなら乗り越えなくても良いではないかと言うと、成長を否定するのかと方々から怒られそうだ。私が生まれて以降、先に「後」のことをしばらく議論してきたが、半世紀を経てようやく本当の「後」がやってきたと思ったら「前」に戻っていたのだろうか、などと妄想しているうちに正月休みもとっくに過ぎてしまったのである。

続きを読む

ZUNOW 5cm F1.9


Mranda A + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / KODAK Ektar 100

写真家は変わっていくのか

 「焦り、不安、恐怖、狂気」などネガティブなイメージを表現したい時、どのようなレンズを使えばよいのだろうか。もし私がカメラ・レンズメーカーの開発社員として、不安や恐怖を催す描写をするレンズを作りたいと提案しても、即座に却下されてしまうことは部外者の私でもわかる。仮に小さな新興レンズメーカーが開発し、発売たところで、そのレンズはキワモノや異端扱いされるであろう。そこは写真家や表現者の創意工夫でなんとかしてくださいというのが暗黙の決まりではあるし、メーカーも一定の線引きを設けているのは感じられる。綺麗でなだらかなボケの明るいレンズが各社から発売され、最高画質をうたうカメラが生み出されている昨今、世の中が常にきれいなもので満ち溢れて、美しい写真を残し、多くの人が幸せになるのならば結構なことではある。しかしながら人間の感情というのは複雑なもので、不安や狂気を表すことによって鑑賞者により深い思考をさせる表現をしなければならない時も必要であろう。もちろんカメラやレンズの機能に頼ることなどナンセンスだ、内容一本で勝負すべきという意見も多くあるだろう。ただ、多くの写真家が自らのスタイルを確立し、成功しているわけではない。また、確立したとされる写真家も時代の「芯」を捉えているかどうか。今後デジタル技術が高まり、レンズではなくカメラ、あるいはスマートフォンのボディ内で、(決してお遊び的な効果ではなく)人間のあらゆる感情、感覚を撮影結果に盛り込む機能、つまりクリエイティブの分野まで技術は進出するのであれば、特別な教育機関で芸術性の能力の訓練を受けなくても、多くの人の琴線に触れる作品を残すことができるカメラが生まれるのだろう。当然陳腐化も早くなる。しかし陳腐化への対応は同時に技術革新の速さにつながる。いささか飛躍した考えではあるが、程度の差はあるとは言え、今後カメラがこのような発展の仕方をするのであれば、現在の「写真家」は、かつて写真機が登場した頃の「画家」と同じ立場に立たされるのかもしれない。

続きを読む

「アート」(1)


カレーの市民 1884-88年 ブロンズ , オーギュスト・ロダン , 国立西洋美術館, 東京
The Burghers of Calais 1884-88 (model), 1953 (cast) (bronze) , Auguste Rodin , The National Museum of Western Art, Tokyo
(Nikon D7000 + Ai AF Nikkor 35mm f/2D)

「アート」

 自らの身分を言い表すとき、俗に〇〇系男子や〇〇系女子などと言われている。最近であれば〇〇系ユーチューバーという言葉(もはや少々野暮ったいが)が使われている。こうした記号で、私自身を表そうとしたとき、「社畜系会社員」といういささか自嘲気味な言葉が頭に浮かんだが、今後景気が悪化し続ければ、社畜でさえも居られなくなり、畜舎から摘み出される可能性もある中、思えば1992年から「失われた何十年」とほぼ同じ期間を社会人として過ごし、随分と難儀な時に社会に出てしまったなと思うこともあるが、私よりも若い世代は就職氷河期などさらに厳しい期間を過ごしており、長く働くことができただけ感謝しないといけないと、実家への帰省をやめて、長くなったお盆休みの間、しみじみと考えていたわけである。

 さて、話は変わるが、ここ最近の傾向として「アートはよくわからん。教えろ」と各方面から言われる事が多くなってきている。私自身、こう見えても美術系の大学を卒業しており、こうした問いには真摯に応えないといけないのではあるが、私は現在のところ画家でも芸術家でも写真家でも評論家でもないただの社畜系の身分なので、この問いに対しては、日本においてカタカナで「アート」と書かれている書籍なり雑誌なりイベントは怪しいものが多いから近付かないほうがいいですよ、と優しくアドバイスしてきたのだが、あまりいい加減なことばかり言っているとそろそろ怒られそうなので、私自身の経験を語りつつ、少し書き残しておく。

続きを読む