人工鑑賞者

 一日の閲覧者がせいぜい数十人の私のこのサイトは、広大なネット空間からすると全くの場末な存在なのだが、自ら管理しているサーバーのアクセスログを覗いてみると、今や燦然と輝く米国AI企業のBOTが、私が気が付かない間に数多く訪問しているようだ。もちろんこれは生身の人間が閲覧していないので、Google Analyticsにはユーザーとしてはカウントされていない。しかしながら、OpenAIはもとよりGoogle、マイクロソフト、アマゾン等々のBOTがアクセスログに足跡を残しているので、それら各社のAIによって当Webページに掲載されている文章や画像の内容のデータを収集し利用されているのであろう。

 このサイトにあげている作例写真は、私が実際に被写体の前に立ち、レンズからカメラ本体を通って私の網膜に投影された光を提示している。それらのデータがどのように利用されていくのか想像することは難しいが、いずれにせよそれは間接的な情報になり、私の手から離れた別の創作物になっていく。そこでふとあることに気がつく。創造物も鑑賞者もAIになったときどうなるのか。つまり、作品の創造、提示、鑑賞、批評、売買という一連の芸術のサイクルに生身の人間が全く立ち入ることのない世界は果たして正当なものなのだろうか。

 もちろん芸術とAIとの関わりは以前から中ザワヒデキ氏をはじめとするAI美芸研によって議論[1] されてきたことだが、昨年からの爆発的なAIの進歩もあってか、より実感するようになってきた。人間の入り込む余地のない芸術サイクルに意義を見出すとすれば、例えば山林に自生していた山菜やきのこを採取するように、AIによって生成・学習・制作・提示・評価された成果物の「利」のみを掬い取ることだろうか。そこには個々に評価の異なる面倒な人間の批評は非効率なこととして不必要である。

 人間を不必要・排除しながら、「利益の追求」という極めて人間的な欲望に拒絶反応を起こす方も多いであろう。しかしこの流れは変わらないとも思う。一方で濃密なヒューマニズムを志向したものと、徹底して人間を不必要とするもの。両方が仲良く共存などという楽観は、いくら私でもできないが、当面両者は時として対立しながら並行して進んでいくのであろう。AIが発展していくとともに、その技術は利己的になってはいないか、今後強く問われていくことになる。

 

 

出典・参考文献

コラム