壊れたPowerShot G7

 かなり以前の話になるが、自分の親が使っていたPowerShot G7が壊れたと言うので、かわりに正常に動作するG10を渡して、この壊れたG7を引きとってそのままにしていた。ふと思い立って壊れたままのG7で夜の新宿を撮ってみたのだが、これが強烈な描写であった。

 画面が常に左から右へ流れるように動き、同じ場所を複数撮っても1枚も同じ描画にはならない。下の作例は、まるで崩壊していくかのような新宿の某有名カメラ店。

 

 新宿駅前ロータリーの印象的な街灯も彗星のように。

他人と同じは嫌

 さながら機械的オートマティスムとでも言おうか。使用者の思考からは全くかけ離れた描写をする。しかしながら最初はもの珍しく嬉々として撮っていたが、毎度撮るたびにこの調子では徐々に苦痛になってくる。

 ふと、各個人が所有しているカメラがユニーク(コンピュータ用語としての一意の、重複のない)な描写をするものとなったらどうなるだろうと想像してみる。上の作例は極端な例だが、偶然に生成された自分の好みの画質を選択し学習させ、使用者オリジナルの描写をするカメラに仕上げることが可能になるとかどうだろう。そのような機能はソフトウェアの仕事だが、カメラに固定されて取り出せないとなると、個々のカメラの価値が変動することになる。メーカーにとってはとんでもない話だが、もともと過去の古いレンズを求めるのは、他とは違う表現を探す旅でもある。当然それは表層的な差異でしかなく、撮影する機能に頼らない優れた表現をする者が評価されるのであろうが、皆が能力を持っているとは限らない。現代、特にスマートフォン等において新機能搭載後、数万人(世界的に見れば数億人)が同時に同じスタイルの写真表現、即陳腐化・大衆化のループから脱出の糸口になるだろうか。

 画像処理ソフト等でのプリセットのやりとりは既に行われていることだ。私が妄想しているのは描画そのものの話。さきほどはカメラに固定したらと書いたが、プリセットのように売買されたらどうだろう。かつて人が話す言葉のみで物語が伝承されたように、人から人へ使用するカメラの学習によって描画が変化していくと………と妄想は続く。