自粛生活中

 中国で疫病が流行し始めたのは確か春節前だっただろうか、このニュースを聞いて私はすぐに自粛生活を始めており、基本的に職場と自宅の往復で休日には部屋に篭る生活であった。5月中旬から下旬あたりに少しカメラを持って出かけたくらいで、5月末には自粛解除するというので、また個人的には6月は自粛生活に戻した。新型コロナウイルスは発症まである程度期間があり、今感染者が多く出ているのであれば、一、二週間前は自分はどんな行動をしていたかを振り返りつつ反省しながら生活しなければならない。今は世の中の流れに反対方向というか、大衆の動きに対して「うっちゃる」ような行動が求められているように思う。

運動不足でして

 とはいえ、自分も日々の生活を続けていかねばならず、免許の更新やら様々なやらなければいけないことが蓄積してくるとストレスも溜まってくるわけでして、先日、会社の健康診断でお医者さんから「運動不足ですね」と言われてしまった。コロナに感染する以前に、自分の鈍りきった生活で体が蝕まれるという情けない状態なのである。

 というわけで少し体を動かさねばと、軽く私が住む東京の中野周辺を走ったのである。鈍った体でも結構動くものだなとマスクを付けて限りなく歩きに近いジョギングをしつつ、選挙ポスターが貼られていたので立ち止まって眺めていたら考え込んでしまった。

 世間では「コロナ後」や「アフターコロナでは」など言われているが、すでにコロナ後の世界に突入していて、今年の3月から4月にかけて、言わばコインの表と裏がパタンと切り替わったようなイメージを個人的には持っている。そんな中、政治に限らず、文化や教育、社会活動などあらゆる分野で、大衆迎合的なものに対する世間の目はより厳しくなっているのではなかろうか。全くの想像だが、例えば当選しそうもない候補者を並べて、誰かを優先的に当選させやすくする為の、何者かによる策略なのか、あるいは、本来は知的だが、単に「おバカ」を装っているだけなのか、いずれにせよ、コロナが蔓延して以降、法を無視した行動や特定の者に対する誹謗中傷など、私たちは連日、大衆の醜い面を見せつけられており、以前と同じ方法で少々突飛な政治活動をされている候補者は、厳しい結果にならざるを得ないと思うのだがどうだろう。今後、地球的な規模で変化が起こると、国や宗教や政治思想を超えたより深い教養や哲学が求められており、無教養な私たちを正しい方向に導いてくれる政治家を・・・とポスターを見ながらため息しか出ないのであった。

CANON FD 135mm 1:2.5 S.C.

 気を取り直して、また限りなくウォーキングに近いジョギングを続けて、中野ブロードウェイ近くにきたので久しぶりに(半年ぶりだろうか)フジヤカメラのジャンク館に入ってみた。以前はボロボロになったカメラやレンズの中にもキラリと光るものが混じっていたように記憶しているが、今はジャンク館が本物のジャンク館になっているようで、物の数もすっかり減っており、あぁこれもコロナの仕業かと勝手にコロナのせいにして、水色のジャンク箱をガサゴソと漁ると、荒野の一本杉のごとく、このCANON FD 135mm 1:2.5 S.C.が鎮座していた。



前後キャップを見繕って¥2200少々



ガラスの塊がゴロっと入っている感じが良い

 古い135mmの単焦点レンズは概ね人気がない。現代では高性能な手振れ補正の付いた70-200mmのズームレンズが存在し、わざわざ重く古い135mm単焦点レンズをアダプターかまして使うこともないのであろう。ただ、以前Nikon Z7で古いNikkor135mmF2を使用したとき、なかなか良好な撮影結果が得られたので、ボディ内手振れ補正付きミラーレス機をお持ちの方々は、古くてもF値2.8よりも明るい135mmレンズを試してみる価値はあると思う。もっとも当レンヌは0.3ほど明るいだけであるし、明るさでレンズの良し悪しが決まるわけでもないが。

 このレンズでベルビアやエクターで撮ったらどう写るだろうかとワクワクしながら、ずっしりと重いCANON FD 135mmF2.5を握りしめつつ、また限りなく歩きに近いウォーキングで家路に着くのであった。