美術と写真(1)
モダニズム
例年であれば年末年始は実家に帰省するのだが、昨年から始まった疫病はご存知の通りの状況でほとんど自分の部屋にこもって過ごしてしまった。その間、いささか大仰ではあるが人類の進歩や近代化、つまり「モダニズム」について延々と思考を巡らしていた。ワクチンを始めとする先端医療や感染予測などの技術向上・環境整備も望まれ、それは大事なことではあるのだが、その前になによりも、自分自身の「欲」と他人の「欲」にどう向き合うか、いかにコントロールするかという、人間の根本的な問題が横たわっているように見える。その意味でかつての宗教は便利な道具であったが、特に日本では1990年代半ばのオウム事件や宗教の対立に起因するテロ・暴力を目の当たりするようになって以降、どこか胡散臭いものとして見られるようになってしまった。何も敬虔な信者でなくとも、例えば「禅」を基盤にした、あるいは部分的にでも生活に取り入れている方は、コロナ以前とあまり変わらない日常を送っているのではないかと想像してみたりもする。産業革命以降近代の枠組みに沿って歩んできたが、私が生まれた1968年前後を境に、近代以後のあり方を模索しポストモダンという少々消化不良と思われた期間を経て、9.11、リーマンショック、3.11と原発問題、とその時々で制度のあり方が問われてきた。それでもなお疲弊した「近代の枠組み」を維持してきたが、このコロナ渦の状況で、近代の象徴たるイベントを断固として開催するのだと為政者が叫び、多くの人が生活に困る中、株価や唯一性が保証されたネット空間のデータの価値だけが舞い上がっていく様は、その疲弊もいよいよ極まって断末魔の叫びのようにも聞こえる。視線をもっと広く見渡せば、現代では中国が近代を乗り越えようと必死になっているが、どうも他国からの賛同は得られなさそうに見える。一方、一足早く超大国となり乗り越えたかに見えた米国は民主主義の根幹である場所でやらかしている。もしかして私たちは「近代の超克セット」という高額商材を買わされてしまったのではないか。そんなに難しいなら乗り越えなくても良いではないかと言うと、成長を否定するのかと方々から怒られそうだ。私が生まれて以降、先に「後」のことをしばらく議論してきたが、半世紀を経てようやく本当の「後」がやってきたと思ったら「前」に戻っていたのだろうか、などと妄想しているうちに正月休みもとっくに過ぎてしまったのである。