岡本太郎美術館にて

 以前、岡本太郎美術館で作品を鑑賞したのだが、赤や青、黄などの原色で激しく描かれ似たような大量の絵を浴びると、さすがに私も辟易としてしまった。しかしながら、展示された作品の中でもいくつか印象に残った作品があり、それは彼が従軍時代に描いた上官の肖像画と、寝ている兵士を描いたもの、そして作品ではないのだが、カメラPEN Fで撮影された、どこか地方の祭の様子が映ったものをべた焼きのままディスプレイされていた場所があり、その3点がずっと私の記憶の中に残っている。

 これらの作品と他の情熱的な原色の作品との違いはどこにあるだろうか。まず、現実の世界を写しとっているか否かの差異がある。岡本太郎自身が能動的に題材を選ぶにせよ、誰かに描くことを強要されたにせよ、世界を眼前にし彼の網膜に投影されたそのイメージが脳に伝わり、彼の手を経て作品に出力されていった、その一連の循環を鑑賞者は受け取ることができる。それに対し、原色の情熱的な作品は岡本太郎から作品への個人的な一つの線であり、前記の3点とは空間の広がりが少ない。現実空間→表現者→作品のサイクルの中で鑑賞者は多くの情報を受信できるのだ。つまり、岡本太郎という個人と作品を通じて現実世界がどのようなものであったかを数十年を経た今でも感じ取ることができるのである。

AI技術者が口を揃えて言うこと

 科学者も芸術家も、この世界は一体何なのかというおそらく一個人が一生かけても(それどころか何世代かけても)解決しないであろう究極の問いに対峙している。いくつかのテレビ番組で技術者がAIの研究の動機として人間とは何かを知ることだと口を揃えているのを観た[1] [2] 。人間を追求するとは、その先には存在とは何か、この世界とは何かという、哲学者が挑んでは苦悩している究極の問題が横たわる。この世から去っていった人のデータが揃えば、残された者は悲しい思いを幾分は解決できる[3] というのは、あまりに拙速で稚拙な考えに思える。

人間とは、存在とは。この世界の究極の問い

 人間存在とはどのようなものなのか、存在の喪失とは何なのか、そのことを巧みに教えてくれる漫画作品がいくつかあり[4] 、世界的にも評価が高まっている。それは大切な人の死を受け入れ、その人の生前の言葉や考え方を己の中で反復、醸成し、次の世代へ伝えるために言葉や形や行動として残す。人類が知性を獲得して以来、連綿と受け継がれているこのサイクルを、仮に人工的に生み出せたとしてもなお、人間を超えたと確信を持って言うことは難しいだろう。

出典・参考文献

コラム