メディウムの更新
現在の美術教育の現場がどのようなものになっているのかは分からないが、私が学生の頃に習ったことは、まず最初に作品を描く土台である基底材(あるいは支持体ともいう)を自分で組み立てることから始まった。角材や板を切ってパネルを組み、布、あるいは和紙を貼り、下地を塗る。ここで注意しないといけないのは、使用する絵の具の性質によって適切なメディウムを選択しないと、せっかく描いたものが剥落したり退色したりするのだ。素材の選択の影響で剥落してしまった最も有名な例はレオナルド・ダ・ヴィンチが漆喰の上にテンペラで描いた最後の晩餐であろう。
作品の芸術性の良し悪しでなく、そのものの永続性に関わる技術的な問題をまず最初に学ぶことは重要であるが、基底材やメディウムは、生み出される土地によって多様ではあれど、時とともに変化していく。技術的な発展とともに堅牢で永遠に朽ちることが無い物で作られた作品は、その多くは力を持った者の近くに存在した。見方を変えれば権力者の変化は、支持体と顔料、それに定着させるメディウム、そしてその成果物である芸術作品の更新を促す。国を動かす政治家か、巨大な財を持つ企業家か。クーデターに成功した者は、まずその国の放送局を掌握するように、米国の最も成功した企業家は、大衆へ効率的に情報を発信可能な企業を自らの手中に収めている。またある企業は、今まで行ってきたことを180度転換、権力者が満足するような経営方針に変更し、生き残りを図る。今年(2025年)は、ここ数年来続いていた紛争の戦後処理に向けての交渉が始まるのだろうか。敗者は負けを認めないままなんとか生き続けるかもしれないが、彼らの基底材は腐食し塗装面が剥落するように衰退が表面化するはずだ。歴史を振り返れば、絵画、紙への印刷、写真、映画、ラジオ、TV、インターネットと、メディアの変化は権力者の変化と歩調を合わしている。そうすると現代の基底材はインターネットだろうか。メディウムはさしずめIPパケットか。
しかしながらデジタルデータは容易に複製が可能であり、閲覧者へ自動的に複製を届ける装置であるインターネット上で、データそのものを作品とするのはいささか具合が悪い。一時期ブロックチェーンの技術で代替不可能な作品が生み出されたが、さて芸術として定着していると自信を持って言えるだろうか。芸術作品の三つの要素、言葉(文字、物語)、イメージ(図像、想像)、物(支持体、現実)はそれ単体では仮象的であるものの、芸術家はそれらを用い、絶妙に絡み合わせて構成させ、その成果物作り上げる。それを所有した者、あるいは展示し鑑賞する者は精神的な豊かさを得ることができるが、新たに創設された強固な支持体とメディウムを用いたからと言っても、必ずしもすべてが永続性を手に入れることができるわけではない。目新しさのみをかてとして、所有している者のみが豊かになろうとしてはいないか。
仮象性へ向かって走れ
かつて多木浩二は「仮象性へ向かって走れ」[1] と題した論考を書いている。
私にはいま次のようなふたつの実感がますます強くなってきた。そのひとつは、情報とかコミュニケーションとか、あるいはそれらに原理的な基盤を与えている象徴的思考に対する疑いである。私たちが過剰な情報的環境に棲息している状況を嘆こうという気はさらさらないし、また都市学者がコミュニケーションの過荷重とよぶその状況に眼をつむることでもない。たとえば、建築や都市の計画が論じられるとき、しばしばマス・コミュニケーションの過重に対してパーソナル・コミュニケーションの復権ということがいわれる。だが、この一見一理ありそうなパーソナル・コミュニケーションというのはいったいいかなる情報をあてにしたものか。その辺は本質的にあいまいである。あいまいであって当然な生の領域に属するものだが、果たしてそういう認識があってあいまいなのかどうかが疑わしいのである。私にとってみれば、たとえばパーソナル・コミュニケーションといったときには、さまざまなノイズと見える現象それ自身、あるいは、それをぬけだしてくる実在性に達することである。それをあえて情報というならばそれは生そのものから漏れてくる情報であり、それがあってはじめてコミュニケーションもあろうかと思われるのだが、そういう人間の生に触れない以上、コミュニケーションという概念は空語にきこえてくる。そういう意味では、もともと、人間はそれ自身がひとつの情報であり、また情報を発散するものであるが、そのことは生とそこからうまれでる表現、肉体やそれがつみぎだす言葉ならぬ言葉について思いめぐらすときに見出される事実だし、その上で意識がその情報化する生を、自らの存在に重ねあわせようとすればするほど、その情報は、先行しているコミュニケーションの概念からみればディスコミュニケーションをつくりだしてしまうこと、あるいはコミュニケーションのさまざまなチャンネルが成立する概念的な基盤自体の解体をいやおうなしにつくりだしているのではないかと思われてくる。したがって建築家や都市計画家が安易にパーソナル・コミュニケーションといい、それが集合的なコミュニケーションを補完すると思われていたとしたら、事態はその期待とは別の方に発展してしまうだろう。<中略>
だから、情報化社会とよばれている技術的メディアによって生じている空間の構造を、そのまま世界全体の構造とみなすとき、第一に世界と人間とについてとほうもなく誤解しているのであり、一般に信じられているように開かれた空間はうまれてこない。私があえて情報とよぶ、広汎な意味での表現があらわれでる領域全体からみると、むしろ情報化社会は一種の密室構造をもっているとさえ思えてくるのだ。したがっていま、強力に情報社会化しつつあるといわれる社会は、解放されつつあるというよりも一種の密室になりかけているのであり、人間の外側にひろがっている世界を秩序づけているようであるが、人間に出口をあたえない密室のように作用するものである。
——「デザイン批評(11)」P.81ー82 仮象性へ向かって走れ 多木浩二
これは「デザイン批評」という雑誌に1970年1月に掲載されたものだ。大衆へのコミニュケーションであろうと個人間のものであろうと、そこに「生」の実在性がなければ不完全なものになる傾向がある。インターネットが出現し、SNSが普及している現在は当時とは比べ物にならないほど情報社会化(ネットによるパーソナル・コミュニケーション化)し、地球村ならぬ超個人村の状態になっているが、この伝達の不完全さゆえの昨今の事象は破壊的である。例えば、人からモノやお金や命さえも奪うことしてしまった人たちの、その行動時の現実感がどこまであったかを想像することさえ困難だが、明らかに事の重大さの自覚の無さと、自分が社会の一部であり、囚われの身になってようやく現実を認識していることの異様さを感じざるを得ない。想像力の欠如は戦争においても現れる。最も現実に直面しているのは前線に張り付いている兵士であろう。そこからの距離から離れた場所になるにつれ人は仮象的になる。そして一番離れている者が最も好戦的なのは今も昔も変わらない。少し前に原爆を投下したB29に搭乗した兵士の苦悩をレポートしたドキュメンタリー[2] を見たが、現在主力の兵器になっているドローンを操作する者はどこまで現実を認識できるだろうか。確かに一般市民と兵士の違いはあれど、前線に送り込まれる者は地方から駆り出された若い一市民であろう。いや、もうすでに人間を介しないで人工知能化したドローンが自動で敵を認識・判別し攻撃するにまでなっているのだろうか。1991年の湾岸戦争時、ケーブルテレビから送られてくる映像はテレビゲームのようだと言われていたが、現在の戦争は攻撃参加するプレイヤーは必要なく、ゲームの題材にすらならないのではないか。
上記の引用した論考は主に建築・都市計画においてなされているものであるが、当然この考え方はこの時から数年前に発表された磯崎新の思考の影響下にある。アメリカで動く住居が行き来するモビール・シティと呼ばれる停泊地を訪れた磯崎は、水道や電気・汚物処理の管だけが設置されている平坦な土地に対して、終戦時の焼け払われた日本の都市と重ね合わせた。トレーラーハウスと間接的に受容する情報と、そのどちらも移動の効率化が進んだ結果、現実は焼け野原になるのではないかという懸念を示唆している。多木のもう一つの実感を以下に引用する。
私がかねて情念とよび肉体とよび、根源的な生とみなしてきたなにものかは、すでにある種の社会的なコンテクストを免れているものではなく、かつまた文化のさまざまなコンテクストに織りこまれていることがはっきりしてきたことである。いまさらこんなことをいうのはある意味では私が不明であって、自明の理だといわれるかもしれないが、そう簡単なものではない。というのは世界を灼ききろうとする情念などは虚妄であるとか、結局、それは文学的で建築には無縁なものだといっているのではない。情念はなんらかの因果関係におきかえられるものではなく、還元不能ではあるが、われわれの太古への渇望でもなければ、われわれのうちがわにだけつくられている闇でもない。それが世界を現前させる仕方のひとつだと気づいてみれば、実は情念そのものが半ば世界によって織られたものなのだということをあらためて見出したのにすぎない。
だが一方では、それは恐怖である。近代の主体という意識をまだどこかにのこしているわれわれには内部などもはやないのかという恐れにとらわれる。あるいはナマな肉体とか自然とかいうものはどこにもないのか。とりだしてみたおのれの原像とは、すでになにものかのコピーかもしれない。私は消えてしまって、私はたださまざまな言葉や事象つまり世界をうつす鏡にすぎないのだろうか。このいささか苦い事実をしっかり踏まえながら、なお生きられたものによって世界はただの客観化された状態をみだされざるをえないと同時に、このみだすものとしての自己もただの不動の視点ではないということを見出していったのが哲学としての構造主義の役割だった。私は存在せず、私は鏡だといったとき、なおかつこの鏡面にうつるものが異様に歪んでいるその歪みに私は生きている自らの不透明さを感じるのである。だがこのような意味で、純粋な内面のないことの発見は、われわれの存在というものにあらたな照明をあてる。
——「デザイン批評(11)」P.83 仮象性へ向かって走れ 多木浩二
まるで半世紀後の現代の状況を憂いているような文章であるが、それだけ現在の我々は仮象化されたの環境に囲まれていると言えよう。1970年代初頭から米国を中心としてあらゆるものが仮象化に向けて走り出した。建築であれば最終的に建築物(モノ)に置き換わっていくが、1980年代、90年代においてデジタル社会が勃興してくると、経済の中心地はやがて都市から、仮想のネット空間へと変貌していく。「仮想化」という言葉で検索すると、その解説はほぼコンピューター用語として定着していることがわかるが、こんにちあらゆるものが「仮想」(実際にはないが、仮にあるものとして考える)を前提として考えられるように変化した。その最もわかりやすい例は金融であろう。まず1972年に米ドルがゴールドからのリンクが外れ、アメリカの通貨そのものが取引の対象になった。金ではなく国の評価の象徴として紙に印刷されたモノが価値を保証され、それはすでに仮象的と言えるが、現代ではサイバー空間に存在する資産として仮想の通貨が隆盛を極めている。種類はどうあれデジタル上の仮想の価値の売買で利を得るのも損失を被るのも実際の物の売買でのそれより現実感は少ない。2000年以降、インターネットが普及するのと並行し、デジタル経済は肥大化した。現在米国を支えている時価総額上位の企業の多くはデジタル経済圏の成功者である。そしてそれぞれAIをテコにさらに成長していく見通しだ。それは仮象化がさらに膨張することになるだろう。米国は昨年株価も最高値を更新するなど経済は良好であったという。しかし、あの昨年(2024年)の米大統領選でも明らかになったように、なぜ多くの人々は不満を抱いていたのか。なぜ多くの都市は荒れていたのか。かつて磯崎が予感した荒廃した土地の風景になってはいないか。
今後人工知能の発展により物語やイメージ・空間・俳優・映画・絵画、等々、あらゆる文化的な創作物がさらに仮象のものになる可能性はある。だが、どんなに緻密で精巧なものが出来上がっても、虚実皮膜が効いたものでないならば不完全なものになるはずだ。
多木は仮象について以下のように述べる。それは後にボードリヤールが主張したことと似ている。
仮象とはものについてのイメージではなく、むしろものであるといった方がよく、このイメージのうしろに実体をさがしうるものでなく、イメージしかないものなのである。つまり、仮象性とは、ものとイメージについてのソフィスティケーションであることをこえて実在させることが本質的にインポシブルなものという意味をもっており、またいまだになにかを象徴していないものなのである。
——「デザイン批評(11)」P.95 仮象性へ向かって走れ 多木浩二
仮象化で満足し、そこで足を止めてしまうことは、決して手に入れることのできないユートピアを追い求めていることと同じなのだ。
出典・参考文献