成田屋三舛 六代目市川團十郎の荒川太郎武貞
東洲斎写楽(生没年不詳)筆 江戸時代・寛政6年(1794)間判 錦絵

浮世の絵

 今でこそ浮世絵版画は博物館や美術館に収められているが、それは江戸期に発展した、版元、絵師、彫師、刷師等の連携による出版システムで制作されたものであった。

 浮世絵の研究者であった吉田暎二はこう述べている。

自体浮世絵というものは、時代の絵であり庶民の絵であるから、大衆から支持がなければ、それまでいかに流行した絵師でも没落し、その画流は滅亡して、それに替って他の新しい流行絵師の出現となったのが常態である。そこが伝統的画流である狩野派のごとき本画流とは全く違った浮世絵の本質なのである。
ーー(「浮世絵の知識 (吉田暎二著作集)」浮世絵の廃頽期という時代 P.71)

 (出版)システムである以上、近代化がもたらす革新は、それまで非効率であったものを急速に新しいものに置き換えていく。開国による印刷技術と写真技術の流入により、浮世絵は明治期に入り衰退していった。しかし、時の権力者や一部の貴族の為でなく、浮き世(憂き世)を生きる市井の人々を描いた版画群は、近代個人主義真っ只中の西欧芸術家の琴線に触れるものでもあった。

 現代に戻り博物館に展示されている浮世絵版画を注意深く観察すると、画面に残されている摺師、彫師たちの研ぎ澄まされた技がそこに込められているのが見て取れる。最盛期には膨大な枚数をこなしていたであろうし、職人同士で技を競い合っていたようにも感じる。現代に当時と同じ枚数をこなす腕利きの彫師・摺師を望んでも難しいだろう。そう思った時、近くに展示されていた一点ものの肉筆浮世絵よりも力強く感じた。それは絵師による大胆な構図や独創的な描画だけではない力が働いている。

 

 

 現在手に入れることが不可能なテクネー(technē)の集積は、複製といえども時と共にアウラの復活を作品にもたらす。このことはインターネットによる超複製空間にどっぷりと浸かっている現代の私たちに重要なヒントを与えてくれている。


紫陽花に翡翠 歌川広重(1797〜1858)筆 江戸時代・19世紀 大短冊判 錦絵

出典・参考文献