スマートフォン VS カメラ
古今東西「諸行無常」「盛者必衰」の話は心躍るものがあるが、スマートフォンとデジタルカメラを対立軸に据えるのは、ことの本質を見誤るかもしれない。
確かに今日に至るまでスマートフォンはさまざまなシステム、とりわけ雑誌や新聞などの既存メディアを駆逐しつつあるが、カメラという同じ機能が備わる道具を駆逐するに至るだろうか。いずれ、より高度なAIが搭載され続けるであろうスマートフォンは、個人と密接な付き合い方をするので、学習によってユニークな(一意な)結果が得られるようになれば面白いと思うが、有名写真メディアの作品のように撮ることができるようになるというのは、陳腐化が早まるだけであまり意味がないように思える。カメラ専用機も同様で、対象物の把握、とりわけ動体の予測、悪環境での能力の向上が見込めるが、それはあくまで目の前で視覚化されているイメージの話である。像を捕獲する道具と人工知能の合体はもう少し深い部分での変革が促進される可能性がある。
人間の肉眼から見る像も、カメラのレンズを通した像にしても、見ることが可能な部分しか投影されない。つまりサイコロにたとえるならば、目に映る一や二の面しか見ることができない。しかし現実にはサイコロの裏には六や五の目が存在する。AIに期待するのは、そのサイコロの読めない部分をいかに提示するか、人間が認識不可能な表面的な像の把握は克服しつつあるが、さらに対象物の(サイコロの五や六の面の)概念までいかに捕獲するかに期待がかかっている。ノイズで荒れた像を綺麗にしたり、不要な物体を消去することは、視覚可能なサイコロの一や二の目を修正しているにすぎないのだ。
このことを踏まえて、実際に言葉や文章から画像を生成する「DALL·E 2」や「Dream」を使うと、およそ100年ほど前に描かれたセザンヌの静物や、特にピカソがアヴィニョンの娘たちで見せたような多視点を連想してしまう。彼らの作品を素直に観れば奇異に写るかもしれないが、世界の現実を捉えようとした。いずれカメラは捕獲した対象物を正確に言葉に変えてAIに伝えていくであろう。我々の抱いている「写真」という概念も変わっていかざるを得ない。