Mranda A + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / KODAK Ektar 100
写真家は変わっていくのか
「焦り、不安、恐怖、狂気」などネガティブなイメージを表現したい時、どのようなレンズを使えばよいのだろうか。もし私がカメラ・レンズメーカーの開発社員として、不安や恐怖を催す描写をするレンズを作りたいと提案しても、即座に却下されてしまうことは部外者の私でもわかる。仮に小さな新興レンズメーカーが開発し、発売たところで、そのレンズはキワモノや異端扱いされるであろう。そこは写真家や表現者の創意工夫でなんとかしてくださいというのが暗黙の決まりではあるし、メーカーも一定の線引きを設けているのは感じられる。綺麗でなだらかなボケの明るいレンズが各社から発売され、最高画質をうたうカメラが生み出されている昨今、世の中が常にきれいなもので満ち溢れて、美しい写真を残し、多くの人が幸せになるのならば結構なことではある。しかしながら人間の感情というのは複雑なもので、不安や狂気を表すことによって鑑賞者により深い思考をさせる表現をしなければならない時も必要であろう。もちろんカメラやレンズの機能に頼ることなどナンセンスだ、内容一本で勝負すべきという意見も多くあるだろう。ただ、多くの写真家が自らのスタイルを確立し、成功しているわけではない。また、確立したとされる写真家も時代の「芯」を捉えているかどうか。今後デジタル技術が高まり、レンズではなくカメラ、あるいはスマートフォンのボディ内で、(決してお遊び的な効果ではなく)人間のあらゆる感情、感覚を撮影結果に盛り込む機能、つまりクリエイティブの分野まで技術は進出するのであれば、特別な教育機関で芸術性の能力の訓練を受けなくても、多くの人の琴線に触れる作品を残すことができるカメラが生まれるのだろう。当然陳腐化も早くなる。しかし陳腐化への対応は同時に技術革新の速さにつながる。いささか飛躍した考えではあるが、程度の差はあるとは言え、今後カメラがこのような発展の仕方をするのであれば、現在の「写真家」は、かつて写真機が登場した頃の「画家」と同じ立場に立たされるのかもしれない。
近・現代の美術(芸術)を考える上で、モダニズムとの関係は切っても切り離せない。冒頭はいささか悲観的に書いたが、写真が20世紀初頭の画家の変化のように、物事の考え方、素材、哲学的に本質を追究する方向に向くのなら、私はそれを見てみたい気持ちも持っている。
ZUNOW 1:1.9 f=5cm
ZUNOW5cmF1.9は時として麗しい滲みとなだらかなボケを見せるが、一方で狂気に満ちた描写を垣間見せるので場合によっては鑑賞者を選ぶことになる。近接撮影時、背景の複雑な形の被写体は騒つく傾向にあるのだが、その「ざわつき」も羽の生えたようなものや魚の鱗のような形となって重なり、それらが筆のストロークとなって縦横無尽に走る。また距離によっては非常になめらかな諧調の部分もある。故に場面によって全く表情が変わるので、このレンズの開放を使いこなすのは非常に難しい。
Mranda T + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / FUJIFILM 100
Mranda T(Orion Name) + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / KODAK Ektar 100
Mranda T(Orion Name) + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / KODAK Ektar 100
Mranda A + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / KODAK Ektar 100
なるべく狂気を抑え込みつつ、ズノウ特有の滲みながらもピントの芯が残る描写を活かした方が無難な撮り方である。
Mranda A + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / FUJICHROME VELVIA50
Mranda T(Orion Name) + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / KODAK Portra 160
Mranda T(Orion Name) + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / KODAK Portra 160
Mranda T(Orion Name) + ZUNOW 1:1.9 f=5cm / KODAK Portra 160